にじいろふうせん

バルーンアート活動のいろいろを書いています。

執着を手放すために

禅僧でも無にはなれない。

それ読んだとき、ぇ、うそぉ、と、思わずつぶやいた。

メディテーション、瞑想、坐禅の違いはよくわからないから置いといて、いずれも心を空っぽに、“無”にするためにやってるんだと思ってた。

ちょっとでも、雑念が湧いたら、木の棒で『喝っ!』てやられるんじゃないの?

学生時代、運動も勉強もよくおできになる子に『ふざけてるみたい』と鼻で笑われたマット運動。
いつでも仲間はずれにされたチーム競技の最中、居心地悪く見上げた青空。

次から次へと浮かんでくる嫌な思い出、将来の心配。

全部消し去ってくれる本だと思ってたのに、モヤモヤはあって当たり前だとでもいうの⁉️
って、本を揺すったところで何も変わりはしません。

というか、実際、期待通りの本でした。

次から次へと不愉快な思考をしてしまうことは、やはり、人間だものってやつみたい。
その、個々の心配事への“執着”を手放しましょう、というのがこの本の目的でした。

著者は禅僧でもあるので、“禅の習慣”として書かれていますが、それぞれの項目は3〜5ページにまとめられていて、非常に読みやすい。
かつ“禅の”と書かれていても、宗教臭さみたいな抵抗は感じられません。

むしろ、ブッダの教えなどのエピソードが出てくるたび、仏教への興味が湧いてきます。

過ぎ去ったことを追ってはならない。未来のことにおいて夢のような考えを持ってはならない。みんなそれぞれの時間が決まっている。
だからあっという間に過ぎていくもの、瞬きをする間になくなっているところのもの、つまり現在の身をよく観察するべきだ〜第一章 34ページより引用

■ヒトリでもでも、ひとりぼっちじゃない。

私は父親に『出てけ!』と家を追い出された過去があり、今でもその関係性は良好とは言えません。

直後、姉からは

『あんた、ロクな死に方しないよ!』

と吐き捨てるように言われたこともありました。

夜逃げのように実家を後にしてからは、天涯孤独になる覚悟をして生きなきゃ、と思ったものです。

友達もいない、頼れる人もいない。そんな当時の私に教えてあげたいと思ったのが、

自分には友達が少ないから寂しいといっている人には、自分の中に最強の友がいることを知ってほしい

という部分。

坐禅の“坐”に表される人というのは、自分ともう1人の自分、自我と自己の対話。
坐禅をすれば、一人きりじゃなくなると書かれてました。

自分の中にいるもう1人の自分と対話すればよかったんですね。

相手を許さない。そう思っている限り、互いの関係性のイニシアチブは自分が握っていると錯覚しますが、実際は相手の態度一つであなたの感情は揺れ動くのですから、あなたの感情を左右するボールは自分のコントロール下ではなく、完全に相手の手中にあります。
だからこそ、相手を許すのです。
〜第三章 136ページより引用

今はまだ家族を許す気にはなれていません。
本を読んだからって、今すぐ何でも実行できるわけじゃ無いですもんね。

でも、心配事が思い浮かんだとき、今・この瞬間に集中して気持ちを楽にすることはできるようになってきました。

いつか、過去への執着から解放されるために、過去の執着を手放して笑顔になれるように、許していけたらいいなぁと思います。